予想通りのこと、まったく予想外のこと

みなさん、おはようございます。

ちょっと晴れたと思ったら、今朝はまたどんより天気ですね。

寒かったり暑かったりで、
服装に悩む方、体調を崩してる方も少なくないのでしょうか。

前回のお話しの続き、サハリンを目指して出発した日は、
朝から気温が30℃を超えるとても暑い日でした。

ところが、到着する稚内の気温を調べたら、たったの17℃!
無理をして冬物のズボンをはき、汗ダラダラになりながらの移動です。

多くの人が、稚内空港につくとまず北端の宗谷岬に向かいます。
一度まちへ出ると、また空港の前を通らないと岬に行けないためです。

一人でバスを待つ私に、親切な夫婦が
「一緒にタクシーに乗らないか?」
と声をかけてくれました

本当は宗谷岬からサハリンを拝みたかったのですが、あいにくの曇り。

7月中旬なのに気温11℃、しかも強風、、、

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冬物ズボンに長袖、ジャケット着た服装では耐えきれません。完全に失敗です。
いきなり困難に立たされましたが、ラーメン屋に駆け込みどうにかしのぎました。

その後、再び夫婦のタクシーに乗せてもらい、市街へ向かいます。
驚いたことに、道路標識やドラッグストアの広告板、商店街のアーケードまで、
ロシア語が併記されているのです。

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僕は日本には国境を意識できるまちは存在しないと思っていましたが、
稚内は僕のイメージする「国境のまち」でした。

市街すぐのノシャップ岬には、日本最大規模の自衛隊のレーダー基地があり、
有事に備えてロシア戦闘機などを常に監視しています。

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樺太で命を落とした人々の慰霊碑も公園に立っています。
広々した駐車場には「北方領土奪還!!」の横断幕の街宣車が。

宿泊するユースホステル近くの書店で「ロシア国境記者」という本を買い、
フェリーでサハリンに渡る前に、極東情勢の予習をすることにしました。

礼文島、利尻島行のお土産屋つきのターミナルとは異なり、
サハリン行フェリー乗り場は、草ぼうぼうの空き地に置かれたプレハブでした。
トイレすら建物の外にある「日本で一番簡素な国際線ターミナル」です!

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そんなターミナルから日本をあとにし、到着したのは日本統治時代に大泊と呼ばれた
サハリンの港町「コルサコフ」です。
稚内港からコルサコフ港までフェリーで5時間。
竹芝から伊豆諸島にいく位の感覚で、
なんと日本と2時間の時差があります!(着いたら2時間時計を進めます)

朽ち果てそうなクレーンや、錆だらけの船。。。
いつも見慣れている港ヨコハマとはまったくの別世界。
どう考えても観光で訪れるような場所ではないと思いました。

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入国手続きには、パスポートやビザの他に、
入国に関する書類(いつまでどこに誰と滞在するか)や、
転売できそうな所持品(携帯電話やカメラなど)の種類と金額など
いろいろ提出しなければなりません。

入出国の手続きは、日本では法務省の管轄ですが、
極東ロシアでは軍の管轄なのです。

個人で旅行している僕は、明らかに浮いた存在で、緊張しました。

代理店からは、通訳とホテルまでの送迎の車が待機していると言われていました。
名前も書いてありましたが、難しくて男女の区別さえつきません。

極東ロシアの港についたときの勝手な印象で、
カタコトの日本語を話せるブローカー風の中年男性が、ボロい旧ソ連の車で来ていると
想像していました。

ところが、待合いロビーについてみると、
20代前半と、20代後半くらいの金髪のロシア美女が2人、
僕の名前が書かれたプレートを持って立っていました。
しかも2人とも日本語メチャメチャ流暢で、
あまりの予想外の展開に驚きました。


女性の一人はベテランの通訳・添乗員
もう一人は春に稚内の大学を卒業したばかりで、研修中とのこと。

船着場の外には洗車されたエスティマが止まっていて、
男性の運転手が、僕のリュックを丁寧に車まで運びました。

そしてなぜか、僕は後部座席に女性二人に挟まれる形で座りました。
何か意図があったのかも知れませんが、
客観的にみて、ロシア系のパブか?と思うようなシュールな光景だったに違いありません。

車窓の写真撮影はどこまで大丈夫か確認すると、
かつてはダメだったけど、今はどこを撮っても問題ないとのことでした。
これも意外。

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宿泊する中心都市「ユジノサハリンスク」までは大体1時間。

車窓を眺めつつ、サハリンにきた目的や、
二人がどういう思いで今の仕事をしているのか話をしました。

                            
                                つづく
posted by ちゅーさん at 08:05Comment(0)記憶

【サラリーマン人生の卒業】最終出社日からちょうど半年を振り返って

みなさん、こんにちは

しぇあひるずは、新緑から深緑に変わる時期。

浅草では三社祭り。初夏の訪れを感じます。

こういう節目に、今まで取ってきた行動がどうだったか?
「ふりかえり」をするのは良いですね。

ちょうど半年前、僕はしぇあひるずの立ち上げのためのターニングポイントを迎えました。

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【重要なご報告】
5年勤めたDELLを退職することとなり、金曜が最終出社でした。

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仕事はもちろんのこと、結婚式や子どもの誕生という人生の節目まで、
様々な形でサポートを頂きました。
皆様、本当にありがとうございました。
頂いたお花や色紙やプレゼントを見ながら、
退職という実感が少しづつ湧いてきて、少し寂しい気持ちです。
今この文章を書いている真横で、我が家に流れてきたメンバー6人
全員が気持ちよさそうに眠っておりますが、
またこんな日があると良いなと、つくづく感じます。

- 以下、振り返りと今後のビジョンです。相当長くなりますので、時間に余裕があるときにお読みください。-


▼DELLというグローバル企業、IT業界で学んだこと。
僕の退職願が受理された日と、EMC買収のニュースが流れたのは奇しくも同じ日でした。
DELLに限ったことではないかも知れませんが、ビジネスに対するスピード感、ロジック、結果へのコミット力は、
かなり高いレベルを求められていたと思います。
テクノロジーは猛烈な勢いで進化をしていくので、
DELLのセールスは、自社の製品やソリューションに留まらず、
幅広いIT知識をアップデートし続ける必要があり、
売上と利益は個人のレベルでも3か月毎に達成させることが任務となります。
さらに、結果を出すまでのKPIについても重点が置かれ、
アカウントに対しての様々なマーケティング、セールス行為が、
綿密なデータ分析で導かれた数値を満たせているか徹底して管理されていました。
全世界で、ブレることなく高いレベルの製品、サービスを、スピーディに提供し続けるためには
こうした数値による高いマネジメント力が不可欠であることを示していると思います。
また、創業者のマイケル・デルは、会社の変革を加速させるために、
株式を非公開化するという大胆な手を使ったことでも、業界の注目を集めました。
今までと同じことをやっていたのでは時代遅れになる、ということの裏返しだと感じています。


▼ITがさらに発達する未来
では、このテクノロジーの世界はこれからどうなっていくのでしょうか。
先月行われたDELL最大のイベントにて、
インテルの副社長が挨拶でこんなことを話していました。
「2020年までに世界で500億のデバイスが、ほぼ確実に、ネットにつながっている。」
世界人口73億ですから、その量がいかに多いか分かります。
僕はこの話を聞いて、「ワクワク」ではなく「ゾっと」しました。
ここでのデバイスとはPCやスマホという枠を超えて、
家電、自動車、ロボット、自動販売機、医療機器、工業装置など
チップが組み込まれたあらゆるモノのことを指しています。
人がマニュアルで操作しなくても、センサーで状況を判断し
ビッグデータの情報を元に最適に動作してくれることを、
爆速で推し進めている訳です。
2020年って、娘もまだ7歳。
今の子供が大人になる時代には、もっとすごいことになると考えています。
映画ドラえもんで、「ブリキの迷宮(ラビリンス)」という作品がありました。
高度に発達し過ぎたテクノロジーの下、人間が生きる力を失ってしまう話ですが、
その領域に近くなってきたな。というのが率直な印象です。

▼僕がDELLを辞めた理由
話を元に戻します。
DELLという会社のビジネスが優良であることは疑う余地がありません。
上司や同僚は、皆仕事ができてフレンドリー。
結果を出せば給与も上がりますし、場合によっては旅行に行けたりします。
その上、勤務時間や休暇の調整はしやすい。
お客様訪問がないときはカジュアル出勤。
外資系ITの大手なので、融資などの審査も有利。
たぶん、日本のサラリーマンの中では相当恵まれた環境だったと思います。
でも、その一方で決定的に不足していた事もありました。
面白そうだからやってみる。年月を掛けて熟成させる。
といった短期の売上には直接結びつかない分野の仕事です。
3ヶ月の結果をフォーカスするあまり、
自分の進むべき目標とのギャップが、勤続年を重ねるごとに広がりつつありました。
皮肉なことに、これはマイケル・デルが株式の非公開化を行った理由に通じる部分があります。
「短期的な株主への配当にこだわっていたのでは、大胆な戦略を取ることは難しい。」
僕の場合は「短期のKPIの達成に気を奪われていては、大胆な人生を送ることは難しい。」
ということでした。
売上や利益を出すことが、個性やスキルに左右されず
効率的・恒常的に実行できるビジネスモデルは、
グローバル企業としては極めて健全なのですが、
「自分がなすべき務めを最大限発揮できる環境であるか?」という視点でみると
自信をもってYES!と言えなかったのが現状です。

▼生きている上ですべきこと
先日のソーシャルビジネスの講座の中で、
「あなたのお客さまになる人の笑顔が見えるか?」
という話がでてきました。
僕がまず笑顔になって欲しいのは家族です。
僕は、デバイスをネットに繋げるだけでなく、
人と人とが有機的に繋がる社会を目指していきたい考えです。
そのための選択肢として、会社員や公務員への転職でなはく、
もっと多様な働き方ができるようになればと考え抜いた末、
「地域活性化のための会社を設立する」という結果に至りました。
こういうことを何となく考え出したのは1年ほど前。
具体的に動き出したのは今夏くらいです。
来年、何をするか一言でまとめると、
「実家(空家)を利用した地域密着型のシェアハウスの立ち上げ」です。
そのために、様々な講義やイベントへの参加と、資金や事業計画、
実際にプロジェクトに関わる方とのリレーションの構築を進めています。
実際に家族が所有する住居が、長い年月を経て空き家になってしまっているので、
やる遂げるしかない「自分がすべきこと」だと確信しています。
その先にもクリエイティブな仕事を沢山イメージしているのですが、
この点についてはまた別の機会にお話します。


▼自分の人生と、日本の歴史
そして今回の退職は自分にとって8年間半の会社員時代の終焉。
あらたな時代の幕開けとなります。
時代の変化は、自分の変化でもある訳です。
さて、自分の人生を日本の歴史の尺になぞらえると、こんな感じになります。
Ⅰ乳幼児時代 「宗主からの強い影響で基礎が形成された」⇒ 飛鳥・奈良時代 
Ⅱ浅草時代  「バブルによる貴族的な繁栄と衰退」⇒ 平安時代
Ⅲ学園時代 「自労自治と文武両道、精神の鍛練」⇒ 鎌倉時代
Ⅳ会社員時代 「庶民の社会進出と家庭文化の確立」⇒ 室町時代
Ⅴ??? 時代 「不安定な世に対し実力勝負を挑む」⇒ 戦国時代
今から突き進む何年かは、将来振り返ったときに
「起業時代」とでも言うのでしょうか。
志は高いですが、生き残りを掛けなくてはいけない。
まさに戦国時代のような状態になるでしょう。
ただし、僕は、穏やかな室町よりも激動の戦国が好きです。
実際には室町と戦国は重なっているように、すでに色んな転機がありました。
もしかすると、その変化に気づいた方もいらっしゃるかも知れませんが、
これからは全開です。
当分ハチャメチャで、ご心配をおかけする可能性も十分にあります。
そんなときは、どんな形でも良いので、物資・援軍を送ってください。


▼30歳を過ぎて、真剣に考え始めた「将来の夢」
最後に、みなさんは将来の夢はありますか?
僕の将来の夢は、とてもシンプルです。
「幸せに暮らすこと」です。
なんだ、当たり前だな。と思う方がいるかも知れません。
しかし、自分がどうなっていたいのか、幸せな日常の一コマを
具体的にイメージしたことはありますか?
僕は、いつか、こうなりたい、こうしたいという願望を
なるべくスケジュールで考えるようにしています。
家のリフォームも、結婚式も3年くらい前から構想を立て、
それに向かって仕事や資金計画などを調整してきました。
付き合って10年目の記念の日に結婚し、
その時に住みたい家はこんな感じ、
新婚旅行は絶対に妥協ない。
と社会人2年目くらいには本気で考えていました。
もちろん、今でもそういう妄想を繰り広げています。
以下は、決定事項(奥さんとの約束です)なので、
みなさん予定を空けておいてください!
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結婚30年記念 お花見ガーデンパーティー 於 あらい家
2042年4月5日(土)12時~
おうちの畑の採れたて「横浜野菜」を使った、
シェフ○○さんのスペシャル創作料理と、
地元で活動するバンドメンバーによる
ミニライブをお楽しみ頂けます!
ちなみに翌日6日から夫婦でワールドクルーズ中の客船に途中乗船。
ドバイ、イスタンブールを経て、5月上旬の終点サウサンプトンまで
1か月二人でゆっくり船旅をします。
(寄港先では、そこに住む友達に見送りに来てもらいます!)
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何年かしたら、Facebookやmixi、その他過去に色んな方面に
投稿したコラムや文章をジャンル分けして、本にまとめようと思います(笑)
そして、日々の活動を発信し続けようと思いますので、
今後とも何卒、よろしくお願いします!

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これからも夢に向かって、頑張り続けます

posted by ちゅーさん at 15:01Comment(0)記憶

付き合って14年 振り返るあの日

2002年4月4日 高校2年から3年になる春休み

私たちが友達以上のパートナーシップを結んだ日

この年のソメイヨシノは、史上最も早い3月15日だったから

もうこの日にはすっかり葉桜

ちょうどオープン直前だった赤レンガパークを散策するも

あまりの強風で、結局ランドマークプラザ内に逃げたっけ


 *  *  *  *  *  *  *


帰りの東急東横線横浜駅上りホーム

二人でベンチに座りながら、これからの道について話し込む

1時間か2時間だったのかは分からない

電車を何本も何本も見送った

どちらも告白はしなかったけど、付き合うことに合意した場所

東横線は地下鉄と直通になって、CIALもろとも解体された場所

だけど色褪せることのない青春の大事な1ページとして

心の中に確かな記憶として残っている

移りゆく季節と、変わりゆく横浜のまちと共に

夫婦となった二人は歩んでいく
posted by ちゅーさん at 08:05Comment(0)記憶